アンセルはデンマーク体操を愛好するグループです。

デンマーク体操の歴史

デンマークの体操とニルス・ブック

デンマークの国情

デンマーク王国 周辺地図デンマークの国の正式名称は、「デンマーク王国 Kongeriget Danmark」であるが、通称は、「デンマーク Danmark」である。ここでは通称で表記する。
デンマークは、北ヨーロッパのユトランド半島とシェラン島、フェン島などの島々からなる立憲君主国である。
中世からの王国であり、一時はスウェーデン、ノルウェーをも支配した。
現在では、世界有数の酪農国であり、社会保障制度が発達し、国民の生活水準が高い。

文化的な面では、デンマークは、童話作家・詩人の アンデルセンHans Christian Andersen (1805-1875)、哲学者・神学者のキルケゴール Søren Aabye Kierkegaard (1813-1855)の母国として広く知られている。
イギリスの劇作家シェークスピア William Shakespeare( 1564-1616 ) の「ハムレット」の中では、デンマーク王子のハムレットが、デンマークを舞台にして劇を展開している。

ニルス・ブックの出現

ニルス・ブック像デンマークでは、度重なる敗戦の歴史を経て国の復興運動を進めていたが、その一環として、ニルス・ブック Niels Bukh (1880-1950)が、 国を愛する至情から国民の体位向上、疲労回復等国民体育・社会体育を進展させるため、人間の運動能力を偏りなく発達させ、維持させる目的を持つ体操の原型を考案した。

ニルス・ブックの体操の特長

十九世紀初めにスウェーデンのP.H.リング(1776-1839)によって考案された「スウェーデン体操」がある。
ニルス・ブックの体操は、均整調和的な身体発育、円満なる感情、品性の陶冶を理想としたが、主眼は一般社会人が専門的な職業に従事したことによって生じた身体の不正発育の矯正や職業能率向上のために欠かすことの出来ない身体の柔軟性・力量・活動能力の増進においた。
リングの体操を基本としながら、これに柔軟性、強靭性、巧緻性の三要素を加えたのである。

リングの体操は、ある部分を他の部分から切り離して運動させ、動作の流れやリズムを殆ど考慮しない。
これに対して、ブックは、振動形式の動作を多く採り入れ、これを各運動の繋ぎとして、運動に流れを持たせてリズミカルなものにした。
この体操をブックは、「基本体操 Primitiv Gymnastik」と名付けた。

オレロップ国民高等体操学校

デンマークには、特異な存在として有名な「国民高等学校」がある。
そこを卒業しても何の資格も特典もない学校であるが、生徒は定められた数か月の期間、校長を始め教師を含めてすべての人達と交わり、真の人間教育を受ける。
ブックは、この「国民高等学校」をオレロップで、「オレロップ国民高等体操学校」として1920年(大正9年)に創設し、基本体操を実際に指導し、また生徒に全人的な教育をした。
そして、同校の生徒や卒業生を連れて幾度となく海外旅行をして、この体操を世界に紹介し、普及を行い、その発展に努力した。

デンマークの体操チーム

現在、デンマークでは、各地域に体操協会所属のチームが若年層から高齢層まで組織され、自分に合ったチームに参加することができる。
また、地域ごとに選抜チームがあり、体操の好きな若者達は、練習に励みオーディションを受け、海外派遣チームに参加出来ることを誇りにしている。
海外派遣の行程中、自分達の模範演技を披露し、現地の人々との交流を通じて多様な文化に接し、お互いのチームワークを強固なものに築くなど、ブックの教育を受け継ぎ、体操が身体づくりだけでなく、若者の人格形成に大きなもの与えている。

デンマーク体操と日本の関係

日本における体操の導入

日本における体操は、1897年(明治30年)にスウェーデン体操がアメリカから紹介され、師範学校を中心に、学校教育の中に広くゆきわたり、この体操が盛んに行われた。

東京高等師範学校の三橋喜久雄氏は、アメリカ、ヨーロッパの視察後、スウェーデンの体育研究所に入所・卒業して、1924年(大正 13年)に帰朝し、学んだ体育理論の普及に努力した。
同氏は、人生は心身の活動力を遺憾なく発揮することであり、体育の目的は心身の活動力を十分に発揮するところにあるから、体育の目的は人生の目的そのものであるとして、自分の体操を「生命体操」と名付け、1927年(昭和2年)に三橋体育研究所を設立し、その普及に努めた。

1928年(昭和3年)11月1日に、逓信省簡易保険局は、天皇陛下御即位の大礼を記念してラジオ体操を制定し、日本放送協会の協力を得て、「国民保健体操」の名称で国民の健康保持増進を目的として放送を開始し、同体操の普及が進められた。

ニルス・ブックの来日

1929年(昭和4年)春に玉川学園の創立者小原國芳氏が、東京・町田市に知育、徳育、体育を統合した理想の教育を目指して学園を開校した。
少年時代から健康に恵まれなかった小原氏は、かねてから本当の体操を探していた。
前述の三橋喜久雄氏から、「体操は、デンマークのニルス・ブックですよ。」と聞かされたことで、玉川学園の齋藤由理男氏を1929年(昭和4年)から1年間オレロップ国民高等体操学校に留学させた。
同氏が帰国してその報告を聞いた小原氏は、学園の子供たちに「世界一の体操」を与えたいと考え、夫婦でデンマークに赴きオレロップ国民高等体操学校を見学した。
その素晴らしさに感動して、ニルス・ブックを日本に招聘することを決意した。

ニルス・ブックの招聘は、学校教育との関係や招聘経費等の問題で、当時の文部省との意見調整を経て、決定された。

ニルス・ブック体操チーム発表 (於いて自由学園) 1931年

記録によれば、ニルス・ブックは、模範演技者26名を連れて、シベリヤ経由で奉天(現在の中国・瀋陽)を経て、1931年(昭和6年)9月7日朝、関釜連絡船で下関に上陸、東上し、9日朝東京駅に着いた。
ブック一行は、9月11日神田YMCAの訪問、12日東京・日比谷公園での実演公開を振り出しに、13日玉川学園、14日成城学園を始めとして全国主要都市40数か所を訪問し実演と講演会を開き、10月12日の自由学園を最後に、10月15日横浜港出帆の郵船氷川丸で、米国経由で帰国したとのことである。

1931年(昭和6年)9月8日付の東京朝日新聞朝刊は、ブック一行が下関に上陸した時のことを『デンマークから體操王一行 けさ元氣で下關着、東上 近く全國を實演巡回』との見出し記事で、『一同は流石にはち切れさうな健康體の持主ばかりである、ブック氏は陽にやけた赤ら顔を輝かせながら語る』として、発言の内容を掲載している。
デンマーク体操を日本の人々に是非伝えたいとの同氏の思いが溢れているので、原文のまま次に紹介する。

『あこがれの日本で今度私の創作した獨特のデンマーク體操をお目にかける機會を與へられたことをちう心から感謝する、この體操は體格の根本的改善その他を目標とし從來の形式的で單調なスエーデン體操を複雜化しリズム化して肉體を柔軟可動的ならしめ、かつ多數の人々が愉快にこれをやれるやうに大改革を加へたものである、随って體操の創始者リング氏の精神をそのまゝの私が受繼いで居るといつてよい 五週余の日本滞在中に是非ともこの精神と技術とを貴國の青少年諸君にお傳へしたい 私はこの體操が將來貴國々民の訓練に適し喜んでこれを實行されるに違ひないと信ずる』

また、昭和6年9月11日付の東京朝日新聞朝刊には、『體操王の第一聲 ラヂオ體操 成功に感心』の見出しで、ブックは、『今夏のラヂオ體操の會が大成功ををさめたと聞いて大喜びである』との記事があり、日本のラジオ体操の会の成功に感心している。

デンマーク体操の普及

ニルス・ブック一行の日本訪問は、日本中を驚嘆させ、ブックの体操は「デンマーク体操」と称され、その普及が進み、学校体育、社会体育に多大な影響を与えた。
また、ラジオ体操の内容充実にも寄与し、「日本のラジオ体操の基本になったデンマーク体操」ともいわれている。

ニルス・ブックの日本訪問のときに、この実演を見学した海軍兵学校教官の堀内豊秋氏が感動し、玉川学園へ度々通って熱心にニルス・ブックの体操を研究し、海軍用に改良した。
これは、1940年(昭和15年)、正式に「海軍体操」となり全海軍に普及し、日本海軍のデンマーク体操として知られている。

東京大学鍛錬部が主催して、全国の高等学校(旧制)から受講者を集めて体操講習会を1942年(昭和17年)12月24日から6日間、朝から夕刻まで開催したとの記録がある。
この体操は「東大全学体操」という新しい体操であったが、講師は、前述の齋藤由理男、堀内豊秋の両氏であり、「誘導振と称する運動から始まる」とのことで、ニルス・ブックの体操がこのような形でも実施された。

デンマーク体操は、デンマークに留学するなどして、ブックの体操の体系的な手法を習得した多くの指導者が中心となり、玉川学園、成城学園、自由学園等の学校、海軍、国鉄、YMCAなどで実施され、普及が進められてきた。
一般社会でも同好の人達が集まり練習をしている。

Copyright © 2007 ANSER All rights reserved.