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第1回 (1999.04.08)
熱中のあまり、我を忘れることは生活の中によくある現象である。
スポーツもその一つである。
身体活動を通して無我夢中になる。或は無我夢中になれるところはたしかにスポーツの特徴であり価値でもある。
無我夢中とは一つの事に心を奪われて、自分の存在は勿論、それ以外のことに全く関心を示さない状態のことである。
スポーツ時に於けるこの状態は、結果として体力の向上、技術の上達に結びつくことが多いし、勝利、堪能、自信、協力などの精神的な効果につながるものである。
しかしその反面、夢中になりすぎて体力の限界を超えた頑張りや、興味につられて危険を軽視することも起こりがちである。
すなわちスポーツに於ける「我を忘れる」という現象は、スポーツのもつ長所と短所の両方に深い拘わりを持っているわけである。
「裸のサル」の著者で有名な動物行動学者の、デズモンド・モリスは、マンウォッチングという本の中で
スポーツ活動は、本質的には狩猟行動の形を変えたものである。といっている。
生物学的にみれば、サッカー選手は、姿を変えた狩猟者の群とみなすことが出来る。
殺傷力のある武器は無害なボールとなり、獲物はゴールに変わった。
そして狙いが正確で、得点できた時には、獲物を殺した狩猟者が味わう勝利の喜びを得るのである。
人類の歴史の九九パーセントは狩猟生活であり、ヒトが狩猟生活をやめ農耕を生活の手段としたのは、今からわずか一万年ほど前にすぎない。
したがって狩猟技術と長かった狩猟生活の衝動は残存して居り、衝動の新しいハケ口が必要になる。
そこで生きる為に行った狩猟が、スポーツと云う形をとって現代の生活の中に生まれかわったと云うのである。
辞書にもスポーツの古い定義として「野生動物を、捕獲あるいは屠殺しようと努力することによって得られる娯楽」とあり、スポーツの原点を古代の狩猟生活に求める人は多い。
体操競技やスケートのフィギヤー・シンクロナイズドスウィーミング・ウエイトリフティングのようなスポーツが先祖の狩猟衝動からの誕生とは思えないが、多くのスポーツに狩猟衝動のハケ口的な形態が感じられることは確かである。
何れにしてもスポーツという身体活動が人の長い歴史から自然発生的に生まれた身体文化であることは十分に頷ける。
一方体操と云う健康法が作られたのは、人が集団で農耕をはじめ、やがて社会という生活形態をもつようになりその中で分業の制度がかなり進んでからのことである。
世界で健康獲得の手段として、今日のような意図をもった体操に相当する健康法を創始したのはアジアの先進国、中国であろう。
体操と云う言葉ではないが導引・按摩・按&8E7B;・康復などと呼ばれているのがそれである。
何れも意図的な自覚過程の産物でスポーツのように生まれたものでなく作られたもので合理的に納得するように構成された身体活動の領域である。
従って興味につられて、我を忘れるような事はない。
スポーツのような興味やロマンに欠ける素材である。
又スポーツには通常、相手があり、相手の力の程度により試合内容や興味の様相がきまるわけである。
即ち活動の動機も関心も外の相手にあるわけである。
それに対し体操は自分の体そのものが対象なので動機・関心・志向等全部が内側即ち自分の体に向いているわけである。
人は不摂生から胃を悪くしたり、不注意から手足など怪我をするとはじめて内臓や手足の状態や機能に関心が向けられるものである。
ところが丈夫でピンピンしている時に自分の体に関心をもち体の機能を知り、自分の体と出合う機会を作ってくれるのがこの体操なのである。
よく「汝自身を知れ」とか「自分との出会い」が人の生活態度の中で大事なことだとよくいわれる。
たしかにその通りであるが実際にはなかなか難しいことである。
そこで私は先ず自分の体と出会うべきであり、自分の体を知ることからはじめるのが順序だと思うのである。
その為には体操によって自分で自分の体を動かしてみることである。
体操は人のかける号令や合図・音楽にしたがって体を動かすものだと考えている人が多い。
体が自分のものであると同じように体操も自分のものでなければならない。
先ず自分の体の長所短所を知るために、自分に出合う為に体操を始めようではないか。