アンセルはデンマーク体操を愛好するグループです。

アンセル通信・コラム

アンセル通信

 長年に亘り自由学園の教師として体操を指導されていた羽仁淳先生が、昨年の10月23日午後天に召された。奇しくもこの日は、 アンセル体操交歓会が行なわれていた。前年の交歓会では、元気にそして手厳しい感想を話されたことが思い出される。
自由学園男子卒業生の中には、在学中に受けた淳先生の厳しい体操を懐かしく思い、今日ある体力の基礎を作って頂いたと感じている 者も少なくないと思う。またその中には淳先生の体操を、その厳しさ故に「殺人体操」と言う者もいたが、それに対し先生は 「俺の体操で死んだ奴は、一人もいないよ」と応えられ、笑わされたものだ。
 1953年(昭和28年)9月、淳先生は体操を学ぶため、日本から貨客船で一ヶ月をかけて南仏マルセイユに着き、そこからデンマーク まで列車で行かれた。(私が高校3年生の時である)こうしてオレロップ体操高等学校で学ぶ淳先生は、先の大戦後デンマークで体操の 勉強をされた初の日本人となった。オレロップでは学校が休みの時も滞在し、エリートチームのトレーニングを受けその発表にも 参加するなど、体操の研鑽に励まれた。
 1955年夏、2年間の留学を終え帰国。杖をついて腰掛けられた羽仁吉一先生(自由学園創立者の一人)を中心に全校生徒が男子部の 体育館に集い、淳先生の演技を見学した。ブルーのオレロップ・エリートチームのユニフォームを着て、大きな声でデンマーク語の歌 を歌いながら一人で堂々と歩くことから始まったその演技に、驚嘆した。その後の授業では動きの種類が増え、テンポも早く厳しいも のとなり、この時から自由学園の体操が大きく変わった。
 翌1956年、「関西デンマーク体操発表会」が企画され、男子部、女子部高等科2年以上と最高学部生の中から42名が練習に励み、 ブラスバンドも加わり総勢65名で、名古屋、京都、大阪、神戸の会場を巡る盛大な発表会が行われた。私は体操チームのリーダー として参加したが、淳先生による厳しい指導の下で行ったこの体験と達成感は、実に大きく、その後の私の人生の基となった。
 1965年、淳先生が帰国されて10年後、私も願っていたデンマークへの留学が叶い、同じような体験をすることが出来た。 そのお蔭でデンマークについての話題が共有でき、淳先生のデンマークの友人とも親しくなった。また学園で所属する部は違って いたが、体育教師としてスキーや登山(遠足)など宿泊を伴う行事を長年共にし、親しく接する機会にも恵まれた。淳先生の存在、 薫陶のお蔭で現在の私があり「淳先生の一番弟子である」と自認している。感謝の思いは尽きない。

淳先生の思い出

古川 幸子

自由学園では、女子部は高等科1年生から淳先生の授業を受ける。 ずっと楽しみにしていた。忘れもしない最初の授業で、夢中で先生の号令に合わせて動いていたら目が回った。それからは体操の ある日の前夜は英語の予習もせずに早く寝て、淳先生の体操に備えた。じきに同級生たちはきつい体操の時は先生の見ている時だけ 頑張るようになったが、私は真ん中の先頭だったので必死に食らいついてやっていた。「もっと脚 上げろ!爪先伸ばせ! 腕は真っ直ぐ伸ばせ! 高く跳べ!もっとしなやかに!」 先生の体操には理屈は無かった。どうやって要求に応えるかは自分で考えて 努力するのみ。一番好きで、最も集中していた時間だった。楽しかった。
 私は1975年11月から78年1月まで、デンマークに留学していた。1976年の夏、横浜YMCAのメンバーと一緒にViborgにいらした淳先生 が、ベビーシッターをしながら地域の体操クラブや、オレロップのエリートチームの練習に出ていた私をViborgに呼んでくださった。 その時初めて私はKisに会い、オレロップには戻らずにViborgの生徒となった。これは私の人生を大きく変えた、Kisと出会ったことで アンセルが生まれ、それはViborgに呼んでくださった淳先生のおかげだと感謝している。
 帰国後横浜YMCAで指導をさせていただくようになったが、先生からアドバイスをもらうことは無かった。駆け出しの私の指導には 、当然いろいろ感じたことはおありだっただろうが、何もおっしゃらず、自由にやらせてくださった。その結果私は体操の輪を広げる ために自分なりの工夫と努力を重ね今に至っている。

*奇をてらわずに、身体を動かす体操をしろ。
*音楽は一つなんだよ。
*みんな脚は2本 腕は2本、幸いあるんだから、よく動かせ。

指導者として 忘れられない言葉だ。

キスはいつも淳先生のことを「Jun Hani」と親しく呼んでいたので、原文のまま言わせていただきます。

体操の大事な友の一人、羽仁淳氏の お別れの会によせて

Kis Østergård

デンマーク体操の大事な友の一人、Jun Haniの訃報の知らせを受け、多くのデンマーク人も驚き悲しんでいます。

1953年にデンマーク留学以来、Jun Haniは一貫してデンマーク体操に熱い情熱を持ち続けていました。オレロップ体操学校で、 体操の楽しさ、奥の深さ、芸術性等大いなる喜びを学んだJun Haniは、帰国後母校自由学園で指導しました。
 彼のデンマーク体操指導から体操の喜びを学んで、自由学園から多くの学生がデンマークに留学し、彼と同じ教育を受け、 帰国後は日本でデンマーク体操に取り組み、生活の中に喜びの種を蒔きました。
 この様にJun Haniは多くの日本人が(日常的に)体操をすることに広く影響を与えました。日本においての、Jun Haniのデンマーク 基本体操への取り組みは、YMCAの社会体育としての体操、そして後にデンマーク体操クラブ・アンセルへと発展していきました。

1972年に私が来日した折、Jun Haniに再会、そして彼がどんな情熱と喜びを持ってデンマーク体操を教えているのを目の当たりに しました。
 Jun Haniがアンセルのために作ったデンマーク基本体操の作品はどれも全て素晴らしく、デンマークでの発表を見たデンマーク人にも 強い印象を与えました。

Jun Haniと一緒に居るといつでもユーモアと明るさに笑いが広がり、 或いは物静かな中にあっても、「さぁ、みんな元気よく過ご そうじゃないか」と思わせてくれる力に満たされていました。Jun Haniが亡くなり、社会的価値をよく理解し、明るく楽観的なデンマ ーク体操の指導者である大事な友の一人を失いました。
ご冥福を祈ります。

淳先生の思い出

村松 恭子

 実家の古いアルバム一頁に1955.11.6の日付、自由学園の体操会の一コマに帰国間もない淳先生の見事なバク転の写真が あった。模範演技をなさったのだろう、学生たちが大勢座席から立ち上がってみている。隣には大学生の演技の写真。先頭に真剣その ものの菊池先生がおられた。
 鶴の一声で淳先生をデンマークに送り出された創立者が急逝された直後の学園の雰囲気を、お二人の姿に垣間見ることが出来る。
次の頁をめくると、七五三の晴れ着姿の私。そのころの記憶はないが、60年以上、一枚の台紙の裏と表に貼り合わされて居たなんて!?と思う。
 現実の先生が私の前に現れたのは高2の夏、体操会の女子部有志体操という種目のメンバーになった時。高2以上の4学年から 7ー8人の有志が授業外の淳先生の指導を受けて一つのプログラムを発表するというものだった。練習は7月から始まり、夏休み中 も続いた。 先生を「体操の申し子」と仰る方があったが、ご自身も“わからない”“出来ない”と思ったことが無いと言われていた だけに、詳しく説明したり、手取り足取り教えたりはなさらない。「もっと高く」とか「そこは柔らかく」と高らかに云われるが、 その境地に自分で辿り着かねばならない。何度でも、何度でも、水溜りになる程の汗を流し、お尻を擦りむき、筋肉痛で坂を後ろ向き に下ったりした。夏が過ぎ、夕方は芝生が冷たい露で濡れるようになってもまだ出来ないことばかり。とりわけ跳ね起きから 土踏まずを?まえて、V字バランスで静止する事は、どんなに練習しても出来るようになる気すらしなかった。だがある日ふとそれが 出来る自分がいた。徒労の様に思えた練習の蓄積に、体は応えるのだと知った。
 自分が指導する立場になった時、私はなるべく分かりやすく説明を心掛けるけれど、あの先生の「近道はさせない」「いくらでも遠回 りして来い」という指導は若い日の私の、今日に至る体を作り上げてくださった。そして自分の限界を決めて、なるべく危ない橋は渡 らない私の性格も変わったと思う。

御小柴さんを偲んで

大塚 華子

御小柴さんとは昨年11月30日、こぶしでの体操をご一緒にしたのが最後となってしまいました。その日、御小柴さんは午前中にショッピングに 都心に行き、午後体操に来られ、夕方清瀬にバスケットの指導に行かれました。
 夜はスポーツクラブでエアロビクスをする予定でしたがフロントで具合が悪くなり、目の前の病院に運ばれました。しかし病院に着く前に心肺停止 されていたと伺いました。

大変アグレッシブに毎日を送り、今の活動量で年齢が10若かったとしても、若いと思われていたのではないでしょうか。身体的にも、メンタル面 も強い方でした。
 今、興味深いことを熱心に人におすすめしてみんなが「楽しかった!」「良かった!」「嬉しかった!」とか言われる事を喜びとされていた方でした。
私にも色々なことを紹介して下さいました。私の母にも、百歳になる方が書いている雑誌の記事を読むことをすすめて励まして下さったこともありました。
体操するのが大好きでしたが、ご主人が亡くなった時は長くふさぎ込みそうになったそうです。その時期に古川先生に「体操に来たら?」と声をかけて 頂いたことが嬉しかったと話しておられました。
 ここ2年位は膝が痛くてパンパンに腫れても引いたらすぐ運動に復帰したり、ブロック注射をしながら体操に来られていたのです。私が養生するように 言っても、「動けるうちに行きたいとこ行かないとね!」と笑みを浮かべながら言っておられました。

御小柴さんがタンクトップ姿で腕を真っ直ぐ上に上げる姿を時々思い出します。
今頃、淳先生と天国でデンマークでの楽しかった思い出やお互いのご自慢の話をされているのではないかと思います。
ご冥福をお祈り致します。

長い間ご一緒に体操をして来ました。ずっとこのまま続くと思っていたのですが・・・
とても存在感のある親切な方でした。
又ひょっこり顔を見せにきてくれる様な気が致します。
私達をずっと見守っていて下さい。    〔都丸〕 

いつも体操でアドバイスをしてくれて、頼りになるお姉さんでした。     〔小垰〕           

あまりにもあっけなく逝かれ、未だに信じがたくいつもの様ににこにこ何処からともなく 笑顔で現れそうな感じがしてなりません。
好奇心旺盛な元気一杯の日頃の行動 彼女らしい卓越した人生だったと思います。
色んな場でやさしく面倒見のいいハートの温かい人でした。
いつも心に感じ乍ら    〔杉浦〕                                      

こまった人と子供に優しく、体操には厳しい人でした。
傍にいた人が急にいなくなる事の胸の痛み。亡くなるその日に、私のむくんだ手を見て 「可愛い手をしているね」と言ってくれた、御小柴さんありがとうそしてさようなら。    〔伊藤〕     

日常の桁外れなパワフル全開の実行力に圧倒されっぱなしでした。
夏はタンクトップ姿で颯爽と自転車で家の前を通り過ぎる彼女を思い出されます。
そして面倒見が良く優しい笑顔が浮かびます。    〔西村〕

今から35年程前近くの小平十四小学校の、朝のラジオ体操に子供と参加した時に指導していらしたのを覚えています。 友達の誘いでこぶしに入会し又一緒に体操するのも何かのご縁だと思いました。四年前はじめてデンマークツアーに参加した私に、 何度もツアー参加している御小柴さんがいろいろアドバイス下さり、写真も沢山撮って頂きとても良い思い出になりました。
ご冥福をお祈りいたします。    〔岡田〕 

つい先程まで元気でジムに通っていらした御小柴さんが亡くなられたと連絡がありました。本当に悲しく力のぬけた毎日で頭から離れません でした。
 私の腰が悪く通院している時、これを見て参考にすると良いよと、本を買ってきて下さったり、病気で長く休んだ時にも、お花を持って来て下さった り本当に良くして頂きました。優しく思いやりのある方で、そんな事も思い出に残っています。
 こぶしの皆で誘いあわせ、御仏前にお参りさせて頂きました。お骨のまわりや段には、生前の思い出の写真が沢山飾られていました。 小平の活動を気遣ってでしょうか四十九日まで休ませてあげようと思うお気持ち優しいお母様思いのご夫婦だと思いました。
ご冥福をお祈りいたします。    〔村野〕 

突然夢かしらと思うほど衝撃的なお知らせを受け早や三カ月にもなりますが、未だに信じ難く、とても悲しいお別れでした。
 「御小柴でーす」とインターホン越しに聞こえた声が今も耳に残り、にっこりした笑顔が浮かんできます。いつも温かで「この手をもっと伸ばすと 良いよ」とか「背筋をピーンとして」等とやさしく教えて下さった時もありました。又、「かかとが痛くて」と言えば「これつけると直るよ」と 薬を持って来て下さったり、とても親切な人でした。
 以前から痛めていた足が、とてもつらそうな時もありました。それでもお元気にお忙しく、度々の小平と松本の往復をはじめ、体操関係のおつき 合いで何処へでも身軽に積極的に行動しておられました。
 年齢からしましても早過ぎる一生でしたが、お好きな数々の体操を力強く精一杯楽しまれ、誰にも迷惑かける事なく羨ましい程の人生を謳歌なさい ました。
 御小柴さんには「こぶしデンマーク体操」チームのお仲間として、忘れる事なく練習や発表も一緒にやっているつもりで頑張りたいと思います。 いつ迄も天国から私達を見守っていて頂きたいと願っています。    〔仲沢〕


淳 先生 語録

―アンセル練習会 交歓会等でのお言葉からー

広報委員会編

  • 60年前に留学して習った体操がデンマーク体操の基本だと思って教えている
  • 先ずはよく動くこと その運動の極限まで動くこと 何回でも同じ動作を続けること
  • 2本の腕、2本脚と頭と胴しかないんだから、変なことはできない筈 よく練習すればみんな揃ってできる筈です
  • よそのチームの真似をしないで、個性ある体操を心掛けよう
  • どうせ発表するなら各チームが個性ある発表を心掛けなさい
  • 蒙曰く「士別れて三日なれば刮目して相待つべし」 と言われている  これは よそのチームも三日も経てばどんどん進歩していることを忘れないで励め・・・ということ
  • 大変よかった 上手下手は関係がない 我々の体操は点数をつけて競うものではない 一人一人が一生懸命、楽しくやればよい
  • でもチームでやる体操だからみんなが揃ってやることが大切 不協和音を出さないように 自分だけの体操をしないように まわりの呼吸を感じて・・・
  • 大したものだ みんなよくやった 帰ったらまた家事もしっかりやってご主人を大切に! そうすればまたアンセルの体操に出やすくなるから・・・
  • 他人に心配をかけないように 自分の身体に責任をもって健康な身体を作ること
  • 体操は何かを考え 目的を持ってそれを極めるようにしよう
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