アンセルはデンマーク体操を愛好するグループです。

アンセル通信・コラム

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第4回

『私の愛するデンマーク体操への旅路』
〔1 旅立ち  2 デンマーク留学での学校生活〕
羽仁 淳
〔1 旅立ち〕
ニルス・ブック体操チーム発表 1931(昭和6)年にシベリヤ経由で来日したニルス・ブックの体操チーム(ブックを始めとして 演技者 男女各12名ずつを含む  総勢28名)は、日本の多くの場所で、デモンストレーションを行った。その一つが当時目白にあった自由学園での発表会だった。 私の家が学園のすぐそばだったので、親に連れられて見学したと思うのだが、まだ4歳であったので当時の記憶は定かではない。 それがデンマーク体操に接した最初であろう。
この体操を見学された自由学園の創立者の一人である羽仁吉一先生が"この体操はとてもよい。学園でもこの体操を授業として やるようにする"と言われたと聞いている。

私は1934(昭和9)年自由学園小学校に入学。高学年になってから授業で、デンマーク体操を習う。40年自由学園男子部普通科入学、 翌41年12月に第二次世界大戦勃発。やがて戦争が激しくなり授業どころではなくなった。

45年8月戦争終結。46年から授業再開。しかしいろいろの事情ですぐには体操を指導する先生が来られなかったので、 私が当時の生徒達を指導した。1947(昭和22)年自由学園高等科(旧制)卒業。助手として学園に残る。
戦前学園で主に男子部の体操を指導されたのは、柳田 亨先生(当時東京YMCA体育主事)、広田兼敏先生(当時横浜YMCA体育主事)、 山田貞雄先生(当時YMCA同盟)の三人の先生方であり、順次来られた。皆ニルス・ブックが創設したオレロップ国民高等体操学校の 卒業生で、山田先生は、日本人として戦前最後の留学生だった。

ブックの体操学校から女子の指導者として、"リッテン・クローン・カール"が学園女子部の生徒をしばらくの間指導された。 戦後は柳田先生が2〜3年男子部を指導され、私も先生から多くのものを学んだ。また、学園の女子部卒業生2名が、戦前日本人 女性最初の留学生として、ブックの学校で学び、戦後も女子部を指導されていた。

1953(昭和28)年、私は学園から戦後最初の日本人として、"オレロップ国民高等体操学校"に留学し約2年間を過した。

貨客船赤城丸

旅程は、神戸港から貨客船で、マルセーユ港まで六週間をかけての船旅。旅客はわずか12名。マルセーユからパリまでは列車。 ここまでは二人旅だった。パリで数日を過した後いよいよ一人旅となる。夜行の国際列車に乗り、フランス、ベルギー、 ドイツを経由して陸路デンマークに入る。オーデンセで列車を乗り換えスベンボーグへ。更に列車を乗り継ぎオレロップ駅へ。 ここからバスで学校まで行った。残念ながらスベンボーグ、オレロップを経由してフォーボー駅まで行く列車は、今は廃線と なっている。
学校のある村は、"オレロップ"という静かな小さな村で、学校のまわりは一面の広い麦畑と近くに大きな湖が今でもある。
当時はどこの国へ行くにもビザが必要だった。そのため暑い夏の盛りにビザをもらうために、歩き回ったことを今でも思い出す。 パスポートも今のように簡単に取得することができなかった。幸にも当時のデンマーク公使を知っていたので、一筆書いても らったら直ぐに発行してもらえた。

以下、私が愛するデンマーク体操の発祥地を訪れて、オレロップ国民高等体操学校で学んだ往時の体験を紹介し、 御参考に供したいと思う。

〔2 デンマーク留学での学校生活〕
当時学校は11月3日に始まり、翌年の3月30日までの冬期5か月のコースと、5月3日から7月30日までの夏期3か月のコースの二つだけ だった。冬期は大部分が男子の学生で、女子は20数名程度だった。夏期は全部女子のみのコース。男子は農家の青年が多かったため、 夏は農繁期でとても忙しい時なので参加出来なかった。共に、年齢は18歳以上と決まっていた。
私は前に述べたように船旅だったので、10月半ば頃には学校に到着。他の学生よりも一足早く寮生活を始めることになった。 日本でデンマーク語を習うことも出来ずにデンマークへ出発したため、学校が始まるまでの半月近くがデンマーク語に接した最初の 時となる。校長先生御夫妻も学校内で生活しておられたので、食事のたびに簡単な事から教えて頂いた。

 11月3日の夕方までに全員集合。夕食から全員の寮生活が始まった。この時が日本でいう入学式。日本のように形式的なものでなく 第二代校長アーネ・モーテンセンが、一人一人どこから来たかと名前を紹介。名前を言われた者はその場で起立した。  創立者ニルス・ブックは1950(昭和25)年に70歳で亡くなられたので、アーネ・モーテンセンが校長になってからまだ3年しか 経っていなくて、実に若々しい校長だった。

寮の部屋  1953(昭和28)年から54年の冬期コースは、114名のデンマーク人男女と、17名の外国人の計131名だった。外国人は、ノルウェー 人9名、カナダ人3名、日本人2名、インド、スコットランド、アイルランド各1名の計17名。寄宿舎はコの字形の校舎の2階と屋根裏 の部屋で、各部屋とも2名ずつで生活していた。私の部屋は屋根裏で、一人分として小さな机、木のベッドとロッカーだけの質素な 部屋だった。

一日の大体の時間割は、次のとおりであった。
起床7時。冬は外は真暗で、夏は太陽が空高く上っていた。7時半から朝食。8時から小さな講堂に集まり校長の司会で短い礼拝。
そして午前中の授業に移る。国民高等学校なので、デンマーク人は一般の授業として国語、数学、音楽、歴史等の科目を主に午前中 にする。
夜の集まり 12時から昼食。3時にコーヒータイムがあり食堂に集まった。3時半から午後の授業。6時半から夕食。9時半に校長室に集まり、 夜のお茶と歌を何曲も歌う。そして"グ・ナッツ"(おやすみなさい)と言ってそれぞれの部屋に帰る。
散歩前の校長夫妻このようにして一日の生活が終わる。 夕食後希望者だけが週2回のマット運動と、1回のフォークダンスを行っていた。 土曜日の午後は天気が悪くない限り、校長を先頭に2時間位の散歩。帰ってから希望者は体操。日曜日の午後にも体操をした。

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