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アンセル通信・コラム

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第6回

『私の愛するデンマーク体操への旅路』
〔5 ランド・ステウネ(LANDSSTAEVNE〕
               6 留学への感謝〕
羽仁 淳
〔5 ランド・ステウネ(LANDSSTAEVNE〕

ランド・ステウネは、記録によれば第1回大会は1862年コペンハーゲンで行われ、参加人員は103名とのこと、私が参加したのは 第12回大会で、この時はたまたま7年に1回の年だった。1954年7月22日から25日までの4日間で、場所はオーデンセ。参加人員は 13,000人だった。1990年までは開催を何年に1回するか決まっていなかったが、90年から4年に1回となった。

私は校長アーネ・モーテンセンが指導するオーデンセ地区とオレロップのエリートチームの二つのグループに属していた。 オーデンセ地区を中心とした男子250名と、オレロップエリートチーム18名であった。オーデンセには校長の車で出掛けた。 最初のうちは小さなグループに分かれて、体操のプログラムを練習する。大体覚えた所でオーデンセの大きな芝生のグランドに 全員が集まり総合練習を開始した。いろいろの年代の集まりなので、中々息が合わず校長も大苦労。当日が近づくにつれて段々様に なって来た。内容は私にとってそれ程むずかしいものではなかった。先頭の列の一員として思い切り体操をする事が出来たのを思い 出す。

’54ランドステウネ

オレロップの方は一日おき位に、午後3時頃から夕食時までと夕食後9時半頃まで練習したように記憶している。エリートチーム のプログラムは基本体操、応用体操、二人組の体操、そしてマット運動で全員が全種目をやらなければならなかった。体操はさてお いて、マット運動は中々大変だった。マットの方は最初に上手な者が模範を示し、以下順番に段々よく出来る者になって行く。 従って、種目によって順番が変わってくる。私はどの種目も大体17名中真中より後の方で行った。マットは今のように厚くスプリン グがきくものではなかったので、完全に自分の力で運動しなければならなかった。それと今と違って跳箱を使っての運動も 多かった。
この体操はまさに"静中に動あり、動中に静あり"であった。校長も要所要所で号令を掛けるだけで、あとは無言のうちに揃って美し い体操をした。そのためには全員がよく体操の動きを理解しなければならなかった。勿論トランポリンを使っての運動はなかった。 オレロップの女子は丁度夏期コースの最後に当たったので、全員が参加した。

〔6 留学への感謝〕

ランド・ステウネに出場するための練習期間、更には本番を通して体操の楽しさ、奥の深さ、芸術性と実に多くの事を学び体験す る事が出来たのは、実に幸であった。この大会が終わった後はもとの労働の生活に戻った。時々ある大会にゲストチームとして発表 したり、講習に同行したり、それなりに忙しかった。今思えば校長が私をいろいろの所に連れて行ってくれたのは、少しでもデンマ ークを知ってもらおうという親切心と、自分の学校に遥か彼方の東洋から勉強に来たという、多少の自慢があったのではないかと内 心思っている。

オレロップエリートチーム

11月から2回目の冬期コースが始まった。朝は皆より早く起きて、プールの掃除をしたりして働いた。授業は2年目なので自分で 選択して受けた。例えば、体操の授業は毎日2時間続けて学んだ。校内で行われたグループ別の体操発表会をした。その時にはイン ターナショナルのリーダーとして体操のプログラムを作り発表し、見に来られていたスペンボーグの体操指導者から誉めて頂いた事 もあった。

食事の時には、先生や生徒がいろいろ報告するが、1年目は内容が全く理解出来ないので、友達に訳してもらいすべての事に参加 したが、2年目には自分で内容を理解し都合のよい時だけ参加するという余裕が出来た。また、前にも述べた体操発表会の時には、 グループの練習予定を夕食の時にデンマーク語で報告する事も出来た。

このようにして1年目より2年目の方が、いろいろの意味で余裕が出来、まわりをよく見る事が出来た。校長のアーネ・モーテン センは全く英語が出来なかったが、奥様は英語、フランス語が堪能だったので、最初の5か月間は何かと気を使って下さった。 例えば、パンも今のように自由に食べられず、黒パンが最初は口に合わなかったので、特別に白いパンを何枚か下さった。 一般の生徒は、白パンは一食につき一枚と決まっていた。チーズも一人一枚だった。バターは普段はマーガリンで、日曜日だけで 本バターだったと思う。あと黒パンにはラードをぬったり、レバーペースト、ジャム位だった。冬は今と違ってほとんど野菜がな かった。黒パンの中には多くの栄養が含まれているので大丈夫だと彼等は自慢していた。

校長御夫妻は校舎の二階に住んでおられたので、よく呼んで下さりお茶を頂いたりした。 また、夏には日本人のお客様が来られ、そのたびに一緒に食事をしたりもした。何か必要な品物がある時には、校長の所に行って 費用を頂くことになっていたが、ほとんどその必要はなかった。

戦後最初の日本人留学生だった事もあって校長は何かと気を使って下さり、また、親切にして下さった。その一つの例として自家 用車で多くの所に連れて行って下さった。前にも述べた講習会もその一つであった。また、デンマークで迎えた二度のクリスマスは、 共に学校であった。"旅人を懇ろに持てなせ"という諺があるように、実に温かいものであった。

デンマークには幾つかの体育専門学校があるが、そのうちの二校、即ちビーボーとソノボーで共に一週間位過した。
ビーボーは、体操専門の国民高等学校で、校長はマス・ニールセンというオレロップで学んだブックの弟子である。私は1955年に同 校長を訪問したが、現在デンマークの体操教育の分野で活躍しているキス・オスタゴーが、当時同校の生徒とし在学し、その時校長 室で私にお茶を出してくれたと言っている。不思議な御縁である。
ビーボーの学校に行かれた方は様子を知っていると思うが、私が訪ねた時はまだ創立間もない時だったので、建物の数はとても少な かった。
キスが指導するようになってから、女子の体操はビーボー、男子の体操はオレロップといわれていた。
ソノボーの方は、スポーツ専門の国民高等学校で、主に球技、陸上、水泳を中心とした学校であった。勿論体操もしていたがその時 間数は少なかった。帰国一か月位前には、"コペンハーゲン大学"の研究所に下宿しながら通った。
オレロップではブックの体操の事を"デンマーク体操"とは言わず、"基本体操(プリミティブ グランド ギムナスティクPRIMITIV GRUND GYMNASTIK)"と言うと、私の持っている教科書に書いてあった(プリミティブ、グランドは、共に基本、基礎という意味)。 日本では一般的には今でもデンマーク体操と言っているので、私もそれにならっている。

デンマークの留学について長々と述べたが、私のデンマーク体操にとって、この留学は 実に多くの影響を受けた。この期間に実際に体操をした時間は、凡そ400時間、その他の練習に100時間位と結構多くの時間、体操 (転回運動を含む)に励んだ。体操の内容の深さ、広さ、高さを十二分に経験したときであった。

直接指導を受けた先生方は既にこの世におられないが、感謝の気持で一杯である。同時に、沢山のよい思い出、懐かしい思い出が 走馬燈のように浮かんで来る。

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