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アンセル通信・コラム

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第11回

『父 三橋喜久雄 のこと』
玉川大学名誉教授
三橋体育研究所
三橋 文子
〔体育環境〕
三橋喜久夫

昭和21年12月2日、13時に姉和子が15時に私が世田谷区祖師谷で産声を上げた。其の時、父58歳、母39歳であった。2歳上に兄がいた。
  父喜久雄の出生地は、鳥取県気高郡白兎、因幡の白兎で有名な白兎海岸まで目と鼻の先であった。兄、姉、弟、妹の五人兄弟の真ん中。年齢にして 10歳〜14歳の頃の4年間は毎日往復5里の通学距離を歩いたり走ったりの毎日であった。此の頃すでにベースボールもし、夏季には海で明け暮 れする海の子生活。新鮮な魚と海藻の食生活を送っていた。
  高等小学校卒業後師範学校入学の為、予備科入学の身体検査に身長が低いということで不合格となった。1年間身長を伸ばすために色々と努力し、 翌年には師範学校に合格、寄宿舎生活が始まった。
  鳥取師範学校時代に身長が27pも伸び、あらゆる運動種目に手を出していた。庭球、ベースボール、短艇、柔剣術、競争等であった。其の頃に あった競技、スポーツ種目には大抵人並み以上に興味を持ち、熱心に行っていた。
  授業での体操は普通体操(軽体操。亜鈴、球竿,混棒、半輪体操等とスウェーデン体操系)と兵役体操であった。体操の時間が来るのが楽しみで あった。4年次、教育実習生として6ヶ月間附属小学校で実習。その後「汝は生涯を教育者として貫き通せ」と決意し、睡眠時間を4時間にして 他の人より多くの勉強に励み、恩師に感謝し、師範学校生活に満足して、全心身に希望をたたえ母校を後にして卒業したのが明治42年3月であった。

〔小学校教師時代〕

師範卒業後母校の山東高等小学校に奉職。睡眠時間を惜しんで、放課後まで残っている生徒を相手に主に体育と取り組んだ。夕食後の3時間は 生徒のための仕事方面に力を注いだ。その後自分の勉強に取り掛かった。師範学校時代から音楽が最も得意な科目の一つであったのでオルガン、 バイオリンは熱心に練習して体育の屋外行事にはバイオリンを携帯し、休憩兼唱歌といった具合に唱歌指導も行った。
  このように若き小学校教員1ヵ年の経験を終った時「汝よ、それは汝の健康だ、健康が将来を決定する。」という結論を出し、 体育の研究を決意した。「私は少なくとも80歳までは溌剌として現場で元気一杯に仕事と取り組もう。」と考え体育研究生活への第一歩が始まった。
  小学校教員2年目に入り、自身の体育研究のために栄養学、生物学、解剖学、組織学、生理学、病理学、衛生学に主力を注いだ。
  哲学、心理学、教育学、音楽には以前から興味を持ち努力していた。 その後師範学校の恩師に現況報告した結果、体育専門指導者の資格取得のために文部省、中等教員検定試験体育科(文検)受験を勧められた。 各県で実施される理論のみの予備試験に合格し、 東京で行われる本試験は、口頭試験を交えて学校体操が2日間、兵式軍事体操が1日と3日間、 毎日6時間に亘る試験には相当手応えのあるものであった。学校体操の試験委員には永井道明、可児徳、井口アグリ等が顔を揃えていた。 明治43年12月8日の官報により合格発表があった。文検受験は、自分の健康を作り上げる一手段にすぎず体育研究の上に何か少し契機づけになったのである。 受験の一番の収穫は、東京に出ることができ、東京市の代表的小学校を視察することができたことである。

〔海外留学〕

1921年、大正10年9月文部省海外留学生として2ヵ年の欧米在留を命ぜられる。34歳。 アメリカに1年 (シカゴ大学に1学期間陸上競技、バスケットを中心に大学生活を送る。ボストンにてハーバード大学で午前中に運動生理学、体育学的理論と アメリカン・フットボール。午後はブウーベスクール(女子のみの体育専門大学)では体操、ダンス、女子ホッケー。スプリングフィールドのYMCAカレッジにて 3ヶ月競技体操とバスケットを中心に研究修練。

英国に3ヶ月 学校体育、社会体育の実情の視察。スポーツにおいてアメリカのものを競技と云うならば、英国は遊戯・スポーツの発祥地としての歴史的存在であった。 テームズ河でのオックスフォード対ケンブリッジのボートレース。次に競馬ダービー。スポーツと社会の賭博性的推移、産業と娯楽、娯楽と投機と仕事、等の問題に首を 突っ込んだ。スポーツの母国としての情景は一般大衆のものでなく、一部の貴族有閑特権階級のものであった。

ドイツに6ヶ月 ベルリン体育大学入学。 カール・ディーム、ドクターフルトロックに師事。
体操、水泳、陸上競技、ハンドボールの実践。ディームの体育学理論。体操競技では屋外で大規模に鉄棒や平行棒でも30組位仕立てて一斉に練習する。 さすが体操の国ドイツを思わせる光景であった。個人の徒手体操は、現在のオリンピックの競技徒手体操の前身的なものであった。社会体育としての ドイツ体操協会の組織の確立の生きた活動に感服。ミュンヘンにて体操協会主催の体操祭に17歳以上80歳の老若男女が集まり、5日間体操を楽しんでいる様子に 日本の国民体育大会の派手さに対して考えさせられた。ボーデのリズム体操の指導も1週間受けた。

スウェーデンに1年6ヶ月 王立中央体操研究所入学。 指導者養成コースでは50人の卒業生中第3番目の成績であった。後の6ヶ月は体育体操に於ける 生理学的基礎と個人体操・医療矯正体操を中心に理論とともに実習を行った。
スウェーデン滞在中に1週間デンマークに、ある時はノールウエィにフィンランドにと北欧諸国に出かけてはまた帰るようにした。ドイツに発起したグーツムーツの 思想と実践がヤーンやシュピースによって欧羅巴本土に拡がり、その影響を受けたデンマークのナハテガルを中心にした北欧の体育勃興、そこにリングの深い研究と 熱烈な彼の祖国愛に基づく文化的平和国家スウェーデンの建設は真の体操こそ世界の体操の基を築いた。

〔帰国後 体育研究所の創設〕

大正13年(1924年)パリにおけるオリンピック大会出場の日本選手団とともに帰国。日本体育建設のための欧米体育の研究であった。
  帰国後昭和2年1月体育研究所設立を決意。成城学園との地続きで世田谷区祖師谷の杜に三橋体育研究所を設立した。資金的に苦しく帰国以来全国到る所を講習会で 駆け回り著書も出版した。講習会の謝礼と著述による収入とで貧弱ながら年々研究室、体育館、寄宿舎、講堂、座禅堂(無碍の家)研究所員の住居等々10年間を費やし完成された。
   その間決して道は平坦ではなかった。全国に講習や著書でもって活動し、小・中学校の体育が三橋による影響が大きくなるに従って、文部省的官僚絶対主義的な一つの 弾圧のようなものが現れた
  文部省学校体操教授要目の改正と称して、小・中学校の体操は、この要目に絶対にあるべきものとして三橋の指導影響を排除しようとした。この要目に反する教師は 左遷転任をさせるようにした。
  昭和5年1月から研究所機関誌として『真体育』を毎月発行した。
  「三橋の名は一小財団法人三橋体育研究所という私的なものであっても仕事は天下の公器である」という自信と責任のもと日比谷公会堂に於いて毎年発表会を開催している。
   体育生活、健康生活を送る為には食生活、休息(睡眠)生活、運動生活をバランス良くとるという生活に即した体育を送らなければならないと説き、「体育即生活論」の 生活を実践した。
  体育人は常に医学的な基礎の上に研究と活動を進めなければならない。その上に文化的、精神科学的方面をも総合させるべきであると考え、三橋の体操を『生命体操』名付けた。

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