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第11回 (2016.06.12)
『父 三橋喜久雄 のこと』
〔体育環境〕
昭和21年12月2日、13時に姉和子が15時に私が世田谷区祖師谷で産声を上げた。其の時、父58歳、母39歳であった。2歳上に兄がいた。
父喜久雄の出生地は、鳥取県気高郡白兎、因幡の白兎で有名な白兎海岸まで目と鼻の先であった。兄、姉、弟、妹の五人兄弟の真ん中。年齢にして
10歳〜14歳の頃の4年間は毎日往復5里の通学距離を歩いたり走ったりの毎日であった。此の頃すでにベースボールもし、夏季には海で明け暮
れする海の子生活。新鮮な魚と海藻の食生活を送っていた。
高等小学校卒業後師範学校入学の為、予備科入学の身体検査に身長が低いということで不合格となった。1年間身長を伸ばすために色々と努力し、
翌年には師範学校に合格、寄宿舎生活が始まった。
鳥取師範学校時代に身長が27pも伸び、あらゆる運動種目に手を出していた。庭球、ベースボール、短艇、柔剣術、競争等であった。其の頃に
あった競技、スポーツ種目には大抵人並み以上に興味を持ち、熱心に行っていた。
授業での体操は普通体操(軽体操。亜鈴、球竿,混棒、半輪体操等とスウェーデン体操系)と兵役体操であった。体操の時間が来るのが楽しみで
あった。4年次、教育実習生として6ヶ月間附属小学校で実習。その後「汝は生涯を教育者として貫き通せ」と決意し、睡眠時間を4時間にして
他の人より多くの勉強に励み、恩師に感謝し、師範学校生活に満足して、全心身に希望をたたえ母校を後にして卒業したのが明治42年3月であった。