アンセルはデンマーク体操を愛好するグループです。

アンセル通信・コラム

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第2回 (2007.10.17)

『人生を変えた デンマーク体操』
堀内 浩二

1950年10月11日、東京YMCAの70周年記念会が共立講堂で行われ、その中にデンマーク体操のデモンストレーションがありました。 初めて見たこの体操が何か心に残りました。
当時は体が弱く、給料分働いていない気持ちがあったので、YMCAに入会を決意し、健康診断を受けて1951年4月、23歳で入会しました。

体育館ではプールに入りましたが、水温16度、ヘルシンキと同じ水温といわれても、冷たくて泳げず、トレーニングに来ていた古橋、 橋爪のものすごい泳ぎに圧倒されました。 デンマーク体操に参加しましたが、ここも寒々しい体育館で体を動かすのがやっとでした。
この頃の時間帯は、午後6時のデンマーク体操のあと、マットの回転運動、機械体操の鉄棒、平行棒などをやっていましたので、 体が馴れるにしたがって参加し、出来なかった回転運動、平行棒倒立、そして鉄棒の逆手車輪ができるようになり、 貧弱だった体も少し立派になりました。

1954年10月、デンマーク体操を指導していたリーダーが海外研修に行くことになり、メンバーに推されて号令台に上げられました。 体は少し立派になっても、人前で話をすることの出来ない気性の持ち主でしたから、メンバーから、あれをやれ、これをやれと教えられ、 体操の指導に少しずつ自信がつくようになりました。

 YMCAはボランティア団体で、キリスト教の「愛と奉仕の精神」に基づいて、青少年の精神、知性、身体の全人的成長を願い、 地域社会に奉仕する運動を展開していましたが、その活動、管理運営まで、会員の手によって行われていました。体育のプログラムも ボランティアリーダーによって作られ、選手を育てることではなく、社会体育として、健康志向のプログラムとなっていました。 有給の指導者が少なく、ほかでは資格のない人が人を教えることは出来ませんが、ここではメンバーが指導することが出来たのです。 リーダーは自分の仕事を持ちながら、余暇活動として働き、休日にはトレーニングや研修会を行って技術の習得を行ってきました。
卓球とか、フェンシングなどの相手のある競技では、リーダーになり初心者を教えると技術が落ちて、国体などでは勝てない悩みを 持っていました。それでも、初心者がすべてのスポーツに入れる所はYMCAだけと聞いています。黒柳徹子さんもYMCAの フェンシングに通って、腕を磨いたとご本人から伺いました。

このような環境で自分が育てられ、鍛えられましたが、デンマーク体操の勉強では、柳田 亨先生(註1)は人事院に異動され、 山田 貞雄先生(註2)は病気で指導を受けられなくなりましたので日本OD会(註3)に入会し、デンマーク体操の勉強を始め、 月・木はYで指導、水・土は日本OD会で勉強と、体操づけの日々を送りました。

1955年9月12日、羽仁 淳先生がデンマーク留学から帰国、体操会を東京YMCAで開催されました。その後も羽仁先生の お時間のある時には、東京Yでご指導頂き、私の指導の糧とさせて頂きました。
社会人の体操として、少しずつ世間にも広がり出し、社会人のスポーツクラブとして、実業の日本社の「オール生活」という雑誌の グラビアに掲載され紹介されました。この初めての経験は私自身にも自信をつけさせてくれました。

1965年、東京YMCAが新体育館を建設、東京オリンピックの影響で、スポーツ熱が盛んになり、入会者が激増しました。 NHKは1966年1月3日朝から、生放送でデンマーク体操を紹介、多くの人に知られるようになりました。
1966年2月に肢体不自由児の雪上教室を体育リーダーで受け持ち、NHKの放送によるPRを受けながら、健康な人のみならず、 恵まれない人にまで、手をさしのべようと、プログラムを10年間続けました。
1967年10月、日本経済新聞に「現代の旗手」として取り上げられ、これをきっかけに、銀行の支店長、神田税務署の職員などが YMCAに入会しデンマーク体操が仕事の能率アップに繋がることを体験してもらい、地域サービスの向上に役立たせました。

内気で消極的な人間が、小学校の同級会で、あまりの変わりように驚きの目で見られるようになるほど、体力もついた上に、 社会人としてリーダーシップを取れるような人間に変ることができたことは、デンマーク体操との出合いと、「教えさせてもらう」 というYMCAの考え方によるものと、深く感謝している次第です。

註1)
柳田 亨先生の略歴:東京YMCAの体育主事の時にデンマークに留学され、ニルス・ブック来日の時には、京城(現ソウル) まで迎えに行く。留学帰国後主としてYMCAでデンマーク体操を指導し、更に人事院に移られた後も、広く一般に普及させるために 努められた。
註2)
山田 貞雄先生の略歴:戦前最後のデンマーク留学生で、ニルス・ブックについて学んだ最後の日本人。YMCA同盟の 体育主事として全国のYMCAの体操指導に携わったが、若くして病に倒れられる。
註3)
日本OD会:ODはデンマークのオレロップ国民高等体操学校の卒業生に与えられる呼称で、日本から留学し、 卒業した指導者達が中心になり、デンマーク体操の研究と普及に努めた会。
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