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第5回 (2008.12.10)
〔3 オレロップ国民高等体操学校の授業
4 学校での労働〕
第1年目に私が受けた授業の大体のカリキュラムは、次のとおりである。
午前中の授業は
(1)全員で受ける音楽と生理学
(2)体操の指導法
(3)インターナショナルだけの生理学
(4)デンマーク語を習う時間等である。
午後は専ら実技で、体操、水泳、ボールプレーの3科目で毎日あった。
更に少し詳しく述べてみよう。
(a) 音楽
授業の内容は、体操、水泳、球技の3種目を毎日1時間ずつ行った。最初の授業は女子が体育館で体操をするので、 男子は水泳か球技をしていた。
(a) 水泳
体育館は3分の2が地下になっていて、空気を入れ換えるために窓を開けると、外の空気が冷たいので、室内に霧が発生したような 状態になった。普段の授業の時の服装は、男子は黒パンツ、女子は同色の水着でそれぞれに自分の名前や、出身地を書いていた。 授業の開始、終了は全部鐘を鳴らして知らせていた。授業の最初には前の組とこれからの組とがそれぞれ二列縦隊に並び体育館の中 を、歌を歌いながら数回行進し、前の組は扉を開けてシャワー室に行く。それから約1時間みっちりと体操をする。私は最初の時間 から最前列で体操をすることになってしまった。体育館が狭いので一人おきに並んだので実際の先頭は3人。動きの名称も全然わから ないので、人と逆の事をしていたり、初めのうちは大変だった。
最初の1〜2か月は授業の大部分の時間が体操で、動きをある程度理解するまで、何回も同じ事を繰り返しやるという極めて厳しい
授業で、汗が床に落ちることも毎度の事で、滑ると危ないので、モップで拭いたものだ。指導は3人の先生が交代でされたが
校長先生が一番多かったように思う。その後は同じ時間内に肋木を使ったり、転回運動が加わったりした。肋木は体育館の三方に
備え付けてあり、全員が一度に運動が出来るようになっている。
3月に入ると卒業発表の練習が始まった。練習は主にO・Dホールという広い体育館で行った。毎日数時間の練習は生徒にとっては
きつくつらいものだった。
発表当日はそれぞれ家族を呼び、5か月間の成果を見てもらった。服装は基本体操と二人組の時は黒パンツ、応用体操と転回運動
の時は白いタイツに白い体操シューズ。女子は水色のワンピース(袖なし)の体操服。皆最高の力を出して発表した。水泳、
球技もそれぞれの場所において発表した。
昼食は家族と一緒のテーブルに座り、思い出を語り合っていた。この時に3人の先生方から順番に名前を呼ばれ、待望の"O・D"
マークを頂く。これを頂くために苦しい事、つらい事に耐えてきたわけである。この"O・D"マークは、"オレロップで学んだ指導者"
という意味のデンマーク語の頭文字からとったもので、技術の上手、下手に関係なく共に学んだ全員が頂けるわけである。
授業の事について主に5か月間にわたり記述したが、それ以外の生活について少し述べてみよう。
食事のときは、毎回全員がそれぞれのテーブルに着くと、司会の先生の鈴の合図で台所の扉が開き、ワゴンで食事が運ばれて来る。
そしてそれが各人に配られ、先生の合図で食べ始める。食べ終ると、また、鈴が鳴り食器をテーブルの隅に集め、それを係の人が台
所に運び、次の食事が運ばれて来る。校長先生以外の先生は各テーブルに一人ずつ入られた。
ニルス・ブックのときから続いているものの一つに、各人宛の手紙を本人に向かって投げるという事があつた。主に校長先生が投げ
られたが、実に上手に本人が取れるように投げて下さる。私の場合は航空書簡だったので、軽くて届かず近くの人が渡してくれた。
このような事は毎昼食時にあり、実に楽しい一時であった。
もう一つは毎晩の集まりである。9時半になると生徒、教師が校長室と隣の図書室に集まって来る。椅子や床に座り、一品を頂きな
がら(例えば学校で取れたリンゴ)、"フォルクハイスクール・ソングボーグ"の中から何曲も歌う。デンマーク人の多くはこの本の
中の歌をよく知っている。デンマーク語の数字の読み方が大変むずかしく、特に三桁の番号がわかった時には、その歌が終わりに近
いといった事が最初のうちは何回もあった。座る場所が毎回違ったので、多くの友と話すことが出来、私にとって大変有益な時であ
った。
5か月間の学校生活のうち少し長い休暇は、クリスマス休暇(10日位)だけだった。
何人かの外国人はその間国へ帰らずずっと学校で生活した。私もそのうちの一人だった。クリスマスは各家庭で静かに祝い、
大晦日は街へ出て行く者も多く、家庭では12時になると教会の鐘を中継する(日本の除夜の鐘と同じ)。それを聞いて"グッド・
ニュート・オー"(新年おめでとう)と言って乾杯する。元日は何時もと同じ食事である。日本の正月の料理が懐かしかった。
5か月の生活が終わりに近くなる頃、各人が友達に一筆書いてもらうためにノートを持って訪ね、コメントを書いてもらう事が始
まる。私も書いてもらい、今でも時々出しては読みながら往時を思い出している。このようにして初めての外国での生活も健康で楽
しく過すことが出来た。学ぶ事の沢山あった最初の冬期コースだった。
4月一杯を"ビサ"の期間といって、有志が残って冬期のコースで使った所の修理や大掃除等をして5月から始まる夏期コースの
準備をした。労働以外に毎日体操を2〜3時間した。5か月の訓練を経て来た者ばかりなので、この期間の体操は一段とレベルの
高いものであり充実した時間であった。
デンマークは大きく分けると、10月から翌年の3月までが冬、4〜5月が春、6〜7月が夏。8〜9月が秋といわれている。
4月の中旬頃から一斉に花が咲き出し大変美しい時期である。そんな時に外で体操をやるのもまた格別だった。1か月間共に労働を
し体操をした友とは4月一杯で別れ、別の生活に入っていった。
私が留学したのは戦後8年目で、今と違って外資の持出しが大変厳しい時だった。学校の方から送ってもらった費用以外は、
1弗も持出しが出来なかった。私は正味1年9か月滞在したが、費用を払ったのは最初の5か月分だけで、あとは日本を立つ前に
校長に連絡をとって、残りの期間は学校で働く事にして頂いた。
5月からの生活は今までと違って忙しく働く日々であった。起床5時半、起床後簡単な食事を摂って仕事に行く。9時半に帰って来て
普通の朝食を摂り再び仕事に行く。12時半に昼食を摂り、食後コーヒーとケーキを食べ、一休みの後仕事へ。家に居れば3時のお茶
の時間があるが、外で仕事をしているので、食後に頂くことになっていた。6時半夕食、その後は全くの自由時間だった。
私の時には1年中を通してデンマーク人の男性3~4名が主に外の仕事を、女性が食事作りや掃除等の仕事をするために11名が働
いていた。私がした主な労働は、小麦の収穫、運搬、リンゴの収穫、イチゴ等の水やり等であった。中でも小麦の仕事は重労働だっ
た。畑は20町歩近くあり、そこで収穫された小麦を納屋まで運搬するという仕事を1か月以上やった。
運搬もトラックでなく馬車の
荷台に小麦の束を積んで行く方法だった。初めのうちは束を積んでいったが、少し高くなると積み上げるのが出来なくなり、今度は積まれた束の上に立って受け取るといった、どちらも大変な仕事だった。彼等は仕事を始めたら日本のように途中での休憩はないので、スローペースで仕事をしたが、それでも結構きつい肉体労働だった。秋には校内にあるリンゴの収穫、首から大きな篭をぶら下げ、その中に収穫したリンゴを入れ、運搬するトラックの所まで一日何回往復したことか。最初のうちは往復のたびにリンゴをかじっていたが、そのうち見るのもいやになった。出荷出来ないリンゴは夜の集まりの時に出た。
その他校内や外の仕事も沢山した。次の冬のコースが始まるまでこのような日々が続いた。この労働で体操の時とは違った方法で体
を鍛えることが出来たように思う。
校長は近くの街(例えばオーデンセ)の体操の指導をしておられるので、ほとんど日曜日のたびに出掛けられた。私もお手伝いをす
るために同行した。朝学校を車で出発し、午前中講義をしたら午後は実技。コーヒーの時にまた講義や質問の時間があり、時には夕
食をし、その後フォークダンス。学校に帰り着くのは夜中、次の朝は5時半に起床し通常の労働生活といった事もしばしばだった。
実技の時には跳箱の上に立たされモデルとなったりした。気候がよくなると至る所で体操の会が開かれた。その地区の人達が集まり
体操に参加した。その会に招待されてオレロップのエリートチームの一員として体操をした。校長は常にその人達を掌握していて、
週1回位に集まって練習をした。