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第7回 (2012.03.07)

『海軍兵学校第78期生とデンマーク体操』
菊池 昭一郎

帝国海軍兵学校78期生は、昭和20年(終戦の年)の4月3日に入校した兵学校最後の生徒である。15歳前後の少年4000人が入校したが、それは海軍兵学校の 歴史上最大の人数であった。しかし、この時の応募者数は73000人であったというから、まさに精鋭である。そして彼等はこれまで兵学校の置かれていた江田島で はなく、佐世保軍港の東南にある針尾島(東西4km南北8kmの島、現在ハウステンボスの所在地)において教育・訓練を受けた。
  この時の総責任者が堀内豊秋大佐であった。堀内大佐は長年江田島の海軍兵学校において、砲術科と体操の指導をしていた人である。しかし海軍体操を指導しながら、 それが健康増進や体力強化への効果が少ないことなどから、疑問を持ち始めていた。
  そのような時、昭和6年(1931年)ニルス・ブック率いるデンマークのオレロップ体操チーム(注 1)が来日し、各地においてデモンストレーションを行った。
  ’ニルス・ブック氏 堀内大佐は兵学校当局から出張を命じられ、文官の教官・杵淵政光氏(注 2)と共に岡山で開かれた体操発表を見学し、講習会に参加することになった。 この体操発表を見た感想を堀内大佐は次のように記している。
  「現世界体操界に一大改革を与えた偉人ニルス・ブックが指導するデンマーク体操を見学して全く驚嘆しました。第一に感じたことは、指導者ブックと実演の子弟が 渾然一体となり、所謂体操三昧境に入った姿、愉快そうな形が今でもありありと目に残り、第二は実演者の体格の美しいこと、均整がとれ、胸は厚く姿勢は正しく 動きは上品で、柔く強く巧妙で、運動能力の絶大なことは到底筆舌の尽くす所ではありません。 (中略)第三に感心したことは、これらの体操者が決して専門家で はないことで、男女各12名ずつの大部分がデンマークの主要産業に従事する農民に数名の大工、左官、女中等一般国民であったことで、これでこそ立派な庶民体育 であると思いました。見事に発育した体に運動神経がよく発達し、端麗優美な姿勢で極めて自然に優雅な型を表現し、熱烈で力強く律動的な動きは最高の芸術であり、 回転運動から相互扶助の行き届いた組み合わせを見て、体操も徳育になることが当然肯かれたのです。」(堀内豊秋追想録・資料編より)

一見しただけで、ニルス・ブックのデンマーク体操の本質を見抜かれ、受け止められている堀内大佐の感性に敬服せざるを得ない。
  堀内豊秋追 このようにして堀内大佐は、デンマーク体操に魅かれ、玉川学園の斎藤由理男氏の元にも行きさらに学び、デンマーク体操を取り入れ、指導するようになった。
  強靭性・柔軟性・巧緻性の向上を目指すこのデンマーク体操を、堀内大佐が実際に行なってみると、生徒達にとって健康増進、体力強化等に効果があること、 さらに大佐が指導している船上の砲術訓練にも役立つことを実感し、海軍司令部にも直訴するまでになった。しかし、傍らから見ると軟弱にも感じられる デンマーク体操は、当初は受け入れられず、海軍体操の教範にある通りに指導するように圧力がかかったとも言われている。前出の杵淵氏の手記には 「数多くの難問を突破して、遂に教範の大改正に運び、全海軍がデンマーク式海軍体操を採用するに至ったことは、堀内氏の信念、熱意、努力の賜物にして、 唯々敬服以外にない。」と記されている。

ちなみに、陸軍ではスウェーデン体操が主流であり、海軍からも指導者が学びに行っていたとも記録されている。
  堀内大佐の号令は、ほとんどが英語であったという。この頃世の中一般では、英語は敵国語として学校の授業で指導することが禁止されていた時代であったのに、 海軍兵学校では週に4時間も英語の授業があったというから驚きである。堀内大佐の号令で、時には4000人の生徒が一斉に体操することもあり、それは壮観なもので あったという。
  さらにこの時海軍では、「日本はこの戦争に負ける」と判断し、海軍兵学校75期生〜78期生までを戦後の「祖国再建要員」「祖国再建の担い手」として教育することを 考えていた。終戦となり、解散に臨んでの堀内大佐の言葉は「国破れて山河あり、諸君は若い、草の根を食べ、根をかじってでも生きて、日本を再興せんことを 祈る。」であった。78期生はこの時15歳前後であったから、終戦後には大学などに進学され、その後社会人となって、祖国の戦後復興に多大な貢献をされた方が、 大勢あったことは確かである。
  昭和20年7月25日、堀内大佐は、本土決戦に備えた特別陸戦隊司令に補されて海軍兵学校教官を辞し、新任地に向かわれた。
  このようなことから、堀内大佐が78期生と共に過ごしたのは、僅か4か月であったが、彼らに与えた影響は大きなものがあった。「堀内大佐は短期間ながら、 生徒達に全身全霊で教育に当たられたので、まだ15歳前後だった生徒たちの心に深い感銘を与えた。」と書かれた文を読んでも分かる。
  堀内大佐はこれに先立ち、昭和17年(1942年)1月11日、海軍初の落下傘部隊の隊長として海軍体操で鍛え上げた300余名の隊員の先頭に立って南方セレベス島に向かい、 メナドに降下し、メナドのオランダ基地を襲撃し、殲滅させる。オランダ軍を退去させた後は、彼の地の司令官となって、住民にもたいへん慕われたという。 彼が別の地に転任する時には、多くの住民が集まり、涙を流して別れを惜しんだとも記録されている。
  大戦後の昭和23年(1948年)、堀内大佐はオランダ軍によって南方セレベス島に戦犯として召喚され、一方的な裁判により5月12日に死刑判決を受け、同9月25日、 朝8時に銃殺刑に処せられた。

堀内大佐辞世の句

「神そ知る罪なき罪に果つるとも 生き残るらむ大和魂」
「白菊(落下傘)の香を残し死出の旅 つはものの後我は追ふなり」

堀内大佐が亡くなってから40年後の昭和63年9月、78期生の有志が集まり「堀内豊秋追想録」を刊行された。この追想録を主幹した新山憲彦氏は 「故海軍大佐堀内豊秋氏は、出会った人すべてから敬愛された方であり、武人というよりも仁徳の人、教育者でありました。」と記している。この追想録には、 堀内大佐がどのようにしてデンマーク体操を海軍兵学校に取り入れたか、また78期生がいかに堀内大佐を慕い、尊敬していたかが詳しく載っている。
  同じ体操を指導するものとして、たった数か月生徒と触れただけで、これだけ大きな影響を与えることができるのだろうかと、比べること自体おこがましい ことではあるが、感心せざるを得ない。

注 1:このデンマーク体操チームが、目白の自由学園(現:自由学園明日館)でも、デモンストレーションを行っている。
自由学園でのデモンストレーション 自由学園でのデモンストレーション
注 2:杵淵氏は柔道家であり、永岡秀一(菊池の祖父)の弟子であったから、菊池は何度かお会いしたことがある。

付記:
この海軍兵学校78期生で、菊池が存じ上げている方々がある。

M氏:デンマーク体操クラブ・アンセルのメンバーになられて10年。 菊池の体操教室にも毎週参加され、熱心に体操を続けておられる。 菊池の教室に来られるようになって8年、80歳代であっても体操が上達することを実証されている。

Ka氏:デンマーク体操クラブ・アンセルのメンバー。
  「堀内豊秋追想録」を菊池のために手に入れてくださった。

デンマーク体操クラブ・アンセル:月に一度集まって体操をしているグループで、自由学園の卒業生が主になって指導をしている。 4年に一度デンマークで開催される体操祭にも参加し、発表している。 上記のお二人は定年退職後、デンマーク体操を懐かしく思い、ネットで調べて「アンセル」に参加されるようになった。しかし、デンマーク体操と言って も以前の号令でした体操と、現在の音楽を使う体操とではずいぶん違うので、初めの頃は、かなり戸惑われたようである。

H氏:追想録に「自由学園と海軍兵学校とは教育理念がまるで違う学校だ。けれども同じ系譜の体操をやった。両方とも素晴らしい学校だ。 私が堀内大佐から海軍体操を習い、そのおかげでデンマーク体操を知り、その縁で娘を自由学園に入れてもらった。」と記されている。

Ko氏:奥様が菊池の小学校時代の同級生。

参考文献:
「堀内豊秋追想録」 海軍兵学校78期生編
「堀内海軍大佐の生涯」 上原光晴著 光人社NF文庫
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